安宅和人さんの『イシューからはじめよ』に、一番納得した一文がある。
やってみた結果が想定と違っても、それも意味のあるアウトプットになる——という話。
なんで、意味があると言えるのか。掘っていくと「一次情報とは何か」の話に繋がった。それを書いてみたい。
この本で、一番納得した一文
『イシューからはじめよ』を読んで、一番納得した一文がある。
分析結果が想定と異なっていたとしても、それも意味のあるアウトプットになる確率が高い
やってみた結果が、思っていたのと違った——それは失敗じゃなくて、「うまくいかない方法を見つけた」という成果でもある。そういう話。
これは、すごく共感できた。自分で考えて、やってみて、結果が想定と違った。じゃあ、次からこれはやめよう。そう思えた時点で、それは単なる失敗じゃなく、良い経験になっている。
ただ、仕事でこれが起きたときに、そのまま「想定と異なっていました」と報告するのは違う。そこは、ちゃんと謝る。
で、この納得を掘っていくと、本書のもう一つのキーワードに繋がった。「一次情報」——現場で、自分でつかんだ情報のこと。
なんで「想定と違っても意味がある」のか。それは、「一次情報とは何か」という話と、同じ根っこだった。
一次情報とは、「想定」を持ってやったこと
本書の序章に、こんな話がある。他人からの話だけじゃなく、自ら現場に出向いて一次情報をつかむこと。そして、つかんだ情報を「自分なりに感じる」こと——と。1章でも、イシューを見極めるための情報収集のコツとして、「一次情報に触れる」が挙げられている。
読みながら、一次情報って結局なんなのかを、自分の言葉で考えてみた。
最初に浮かんだのは、「自分で決めてやったこと」。言われたから、提案されたから、でやったことは、手を動かしたのが自分でも、なにか身につかない感じがある。
でも、それだけだと足りない。手を動かす作業で得るものも、たしかにあるから。初めてやる作業は、単純なものでも発見がある。
ただ——同じ作業を30回やったら、どうか。データ入力とか、洗濯物をたたむとか。30回目に得るものは、たぶん、もう無い。
初めてと30回目で、何が違うのか。「想定」があるかどうか、だと思う。
初めてやるときは、「こうすればできるか?」という自分なりの見立てを持って、手を動かしている。だから、合ってた・違ってた、が返ってくる。30回目は、考えずにできる。何も問うていないから、何も返ってこない。
そう考えると、「自分で決める」が大事な理由もはっきりする。決めるとは、想定を立てることだから。言われた通りにやるだけなら、想定を立てる場面がない。人に意見をもらってもいい。最終的に「これでいく」と決めたなら、それは自分の想定になる。
冒頭の一文に戻る。「想定と異なっていても、意味がある」——そもそも想定があるから、違ったときに意味が生まれる。想定通りなら、自分の見立てが使えると分かる。想定がなければ、合ってるも違うもない。
一次情報かどうかは、情報の種類でも、手を動かしたかどうかでもなくて——想定を持ってやったかどうか。僕はそう読んだ。
聞いただけの知識は、深くならない
想定の話は、知識の話にも繋がる。
「こんなこと聞いてん」「こうらしいで」——人から聞いた話を教えてくれる場面は、日常によくある。そこで、ちょっと質問を返してみると、「それはわからん」「どうなんやろ」で止まってしまうことが、結構多い。
これは、その人の頭が悪いという話じゃないと思う。聞いただけの情報は、そういうものになる、という話。
質問に答えるには、聞いた話を自分なりに解釈して、自分の中に落とし込んでいないと難しい。さっきの言葉で言えば——聞くだけの情報には、自分の想定が通っていない。「これはこうやから、こうやと思う」と返せるのは、聞いた話に、自分の考えを一回通した人だけ。
本書に、こんな一文がある。
「優秀」とか「頭がよい」と言われている人ほど頭だけで考え、一見すれば効率のよい読み物などの二次情報から情報を得たがる傾向が強い
ここは、ちょっと違う気がした。「優秀」と「頭がよい」を、一括りにしていいんだろうか。
僕の中の区別は、こう。学校の勉強で秀でている人が、「頭がよい」人。ビジネスで秀でている人が、「優秀」な人——個人的には「優秀」より「賢い」という言葉をよく使う。
「頭がよい」人が二次情報を得たがるのは、著者の言う通りだと思う。でも、「優秀(賢い)」人は、違う。誰かが得たもの、フィルターを通したものじゃなく、自分で得たこと・感じたことを基準に考える。つまり、一次情報を求める側の人。
それと、もう一つ気をつけたいこと。人に聞いて仕上げたものでも、成果の質は変わらないかもしれない。でも、その質を出したのは、情報をくれた人。それを100%自分の成果だと思い込むと、スキルが伸びなくなる気がする。
聞くこと自体は、悪くない。むしろ大事。ただ、聞いたままで終わるか、自分の想定を一回通すか——深くなるかどうかは、そこで分かれる。
多少の無駄は、受け入れていい
本書は、無駄をとことん嫌う本でもある。「やることを削る」。答えを出す必要のない問題には、手を付けない。スタートを間違えると、それ以降が全部無駄になるから、最初の見極めに力を入れろ——一貫して、そういう思想。
正しいと思う。でも、少しだけ引っかかる。
何もかもが、うまくいくわけがない。どれだけ見極めても、スタートを間違えることはある。そのとき、本書の物差しだと「全部無駄」になる。
でも、その間違いが「自分で決めた」ものなら——それは良い経験として、自分の中に落とし込める。さっきの言葉で言えば、想定を立てて外れたんだから、一次情報は入っている。「この選び方は違った」という情報が。
だから、こう思う。無駄を省くのは大事。でも、多少の無駄を受け入れて経験を積むのも、同じぐらい大事。
しかも、長い目で見ると、経験の無駄は、無駄で終わらない。自分で答えを出せるものが増えれば増えるほど、人に聞いたり、調べたりすること自体が減っていく。そしてもっと増えれば——今度は、聞かれる側、アドバイスする側に回れる。さっき「質を出したのは、情報をくれた人」と書いたけど、経験を積んだ人は、その「情報をくれる人」の側になっていく。
目の前の無駄を一つ受け入れることが、将来の無駄を減らして、いつか、誰かの役にも立つ。
無駄の省き方を教えてくれる本を読みながら、無駄の価値について考えていた。
まとめ:想定と違っても、意味がある
一番納得した一文に、戻ってくる。
「分析結果が想定と異なっていたとしても、それも意味のあるアウトプットになる確率が高い」——なんで意味があるのか、自分なりに言語化できた気がする。
意味は、結果からじゃなくて、想定から生まれる。
想定を持ってやったことは、当たっても外れても、何かが返ってくる。想定のないまま繰り返したことは、30回やっても何も残らない。聞いた話も、自分の考えを一回通せば深くなるし、通さなければ「こうらしいで」で終わる。間違ったスタートすら、自分で決めた想定なら、経験になる。
だから、たぶんこういうことになる。
やる前に、「たぶん、こうなる」と一回だけ見立てる。それだけで、同じ作業が、同じ失敗が、情報に変わる。
外れていい。外れても、一つ賢くなる。想定と違っても——意味は、ある。
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書籍情報
『イシューからはじめよ[改訂版]――知的生産の「シンプルな本質」』
著者:安宅和人
出版社:英治出版
発売:2024年(初版:2010年)
