『嫌われる勇気』の「誰の課題か」を、本のゴミ拾いの例に当てたら答えが割れた

『嫌われる勇気』は、これは誰の課題か、で分けろと言う。

見分け方も用意されている。その結末を最終的に引き受けるのは誰か——でも、本のゴミ拾いの例に当てると、答えが割れた。

分けられる場面と、分けられない場面がある。それが分かっただけでも、当てはめた意味はあった。

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「誰の課題か」で分ければ、悩みは減らせる——に乗りかけた

『嫌われる勇気』の3章は、課題の分離という話でできている。

対人関係の悩みの多くは、他人の課題に踏み込むことから起きる。だから、これは誰の課題なのかを見分けて、他人の課題は切り捨てる。そうすれば悩みは減る、と。

見分け方も、ちゃんと用意されている。その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰か。

これは使えそうだと思った。抽象的な心構えではなく、当てはめれば答えが出る形になっているからだ。

ただ、実際に当てはめてみると、うまくいく例と、うまくいかない例があった。しかも両方、この本の中に出てくる。

子どもの勉強なら、きれいに分けられる

本が挙げるのは、勉強しない子どもの話だ。

親は勉強しろと言う。でも、勉強するかどうかの結末——成績や進路——を最終的に引き受けるのは、子ども自身だ。だから、これは子どもの課題であって、親の課題ではない。親にできるのは、頼まれたときに手を貸せるよう構えておくところまで。

この例なら、たしかに分けられる。

結末を引き受ける人が、一人にはっきり決まっているからだ。勉強しなかった結果は、子どもの人生に出る。親がどれだけ気を揉んでも、そこは代われない。

読んでいて、なるほどと思った。他人のことで悩んでいるとき、たいていは代われないところまで背負い込んでいる。それを線で切れるなら、悩みは確かに減る。

だから、この基準は使えるものだと思った。別の例に当てるまでは。

ところが、ゴミ拾いの例だと答えが割れる

同じ本に、もう一つ例が出てくる。職場に落ちているゴミを拾う話だ。

青年は言う。拾っても誰も褒めてくれないなら、そのうち拾わなくなる、と。承認欲求が満たされないなら、やる理由がない。

ここで、さっきの基準を当ててみる。このゴミを拾うか拾わないか、その結末を最終的に引き受けるのは誰か。

やってみると、一人に決まらない。

拾わずに置いておいて、誰かがそれで滑って転んだとする。怪我をするのはその人だ。結末を引き受けるのは、他人になる。

ただ、そのとき自分はどう思うか。あのとき拾って捨てておけば、と思うはずだ。同じ出来事の結末を、自分も引き受けている。

転ぶ前の話でも同じだ。一度見つけてしまうと、その場所を通るたびに気になる。仕事中にふと、まだ落ちているんやろうか、と頭をよぎる。集中が切れる。これも自分の結末になる。

同じ一つのゴミが、他人の課題にもなるし、自分の課題にもなる。

子どもの勉強との違いは、はっきりしている。あちらは、結末を引き受ける人が一人に決まっていた。こちらは、他人と自分の両方に、同時に散っている。

判定できないと、何が困るか

答えが割れるくらい、別にいいじゃないか——とも思える。でも、割れると困ることが二つある。

一つは、この基準本来の役目のほうだ。

この問いは、どこまで関わるかを決めるためのものだった。他人の課題なら切り捨てる。自分の課題なら引き受ける。ところがゴミの例では、他人の課題でもあり、自分の課題でもある。切り捨てていいのか、引き受けるべきなのか、決まらない。分けるための道具なのに、分けられない。

もう一つは、僕が勝手に期待していたほうだ。

読みながら、この問いを使えば別のことまで分かるんじゃないかと思った。自分のこの行動は、褒められたいからやっているのか、それとも自分がやりたくてやっているのか。承認欲求を捨てろと言われても、そもそも自分がどっちで動いているのか分からないと、捨てようがない。

でも、やってみると分からなかった。

ゴミを拾う人が二人いるとする。片方は、褒められたいから拾った。もう片方は、誰かが転ぶのが嫌だから拾った。

結末は、どちらも同じだ。ゴミがなくなって、誰も転ばない。誰が引き受けたかを調べても、二人の違いは出てこない。

結末を見る問いなので、当たり前といえば当たり前だ。ただ、当てはめてみるまでは分からなかった。

では、この基準は使えないのか。そうは思わない。

まとめ——使えないのではなく、使える場面が限られている

子どもの勉強では、きれいに分けられた。ゴミ拾いでは、分けられなかった。同じ基準なのに、結果が違う。

違いは、結末を引き受ける人が一人に決まるかどうかだったと思う。

勉強しなかった結果は、子どもの人生に出る。親がどれだけ気を揉んでも、そこは代われない。だから線が引ける。

ゴミの場合は、関わる人が増える。転ぶ人がいて、悔やむ自分がいて、片づける誰かがいる。結末が散らばると、線を引く場所がなくなる。

そう考えると、この基準が一番効くのは仕事だと思う。仕事には役割分担がある。誰がどこまでやるかが、最初から決められている。だから「これは誰の課題か」を持ち出すまでもなく、線はもう引かれている。

引かれている線を認めて、他人の担当に踏み込まない。そうすると、自分の担当に集中できる。悩みが減るというより、手が空く。

逆に、役割が決まっていない場面——さっきのゴミみたいな話では、割れる。そういうときは、無理に分けない。誰の課題かではなく、自分がどうしたいかで決める。気になるから拾う。それだけの話にする。

全部を切り分けられたら、悩みは減るのかもしれない。でも、切り分けられない場面のほうが、たぶん多い。それでも、線がすでに引かれている場所では、この問いはよく効く。

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書籍情報

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』

著者:岸見一郎、古賀史健

出版社:ダイヤモンド社

発売:2013年12月

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