『嫌われる勇気』が読みにくかったのは、対話形式のせいだった

『嫌われる勇気』は、内容が難しいわけではないのに、読みにくかった。

原因は、たぶん対話形式そのものだ。

代弁者のはずの青年とは引っかかる場所がズレて、答えのまわりには話が増えていき、最後は置いていかれた。

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名著と言われる本なのに、読みにくかった

『嫌われる勇気』を読み終えて、まず残ったのは「読みにくかった」だった。

内容が難しいわけではない。理屈は平易だし、一つひとつの話ももっともらしい。言葉の意味が途中で入れ替わることには何度もつまずいたけれど——それは中身の話で、別に書いた(→ 『嫌われる勇気』は矛盾しているのか)。

そことは別に、この本には読みにくさがある。原因は、たぶん形のほうだ。哲人と青年が五日間かけて対話する、あの作りそのもの。

対話形式は、難しい話を噛み砕くための工夫としてよく使われる。なのに僕には、逆に働いた。青年が、こっちの引っかかりとは違うことを考えて返すからだ。自分の疑問は解決しないまま、話だけが先に進んでいく。

青年は、僕とは違うところで引っかかる

対話形式のいいところは、読者が引っかかりそうな場所で、青年が代わりに質問してくれることだと思う。実際、そういう場面もあった。

問題は、僕の引っかかりと青年の引っかかりが、しょっちゅうズレることだ。

たとえば1章に、生まれながらの不幸はあるか、という話が出てくる。青年は「ある」と言い、哲人は「認めません」と返す。

僕がここで考えていたのは、遺伝のことだった。犯罪の傾向は遺伝しやすい、という話がある。あくまで傾向だとしても、それが事実なら、社会のルールに合わせにくい状態で生まれてくる人はいることになる。人より意識して自分に制限をかけないといけない。それは不幸と呼んでいいんじゃないか。

でも、この方向の話は出てこない。青年は別の理由で不幸を主張し、哲人は別の理由でそれを否定する。二人のやり取りは進んでいくのに、僕の疑問はそのまま置いていかれる。

代弁者はいるのに、僕の引っかかりは拾われない。それが何度もあった。

一つ聞いても、話が増えて戻ってこない

もう一つの読みにくさは、一つ聞いたときに返ってくる話の量だ。

2章に、こういうやり取りがある。青年が「面と向かって人格攻撃されたらどうすればいいのか、ひたすら我慢するのか」と聞く。

哲人の答えは、争いから降りろ、というものだった。相手が挑んできても、リアクションを返さない。できるのはそれだけだ、と。

答えとしては、ここで終わっている。要するに、相手にするな。

でも、話は続く。我慢という発想そのものが権力争いにとらわれている証拠だ、と言われる。「わたしは正しい」と確信した瞬間に、もう争いに足を踏み入れている、と言われる。正しいと思うなら、他人がどんな意見であれそこで完結すべきだ、と言われる。

落ち着いて見ると、どれも同じことを言っている。正しさで完結するというのも、結局は降りることだ。

それでも読んでいる最中は、そう思えなかった。別の言い方が次々に足されるので、話が先へ進んだように見える。気づいたら、最初に聞いたのは何やったっけ、となっている。

答えは、もらっている。それなのに、答えをもらった感じがしない。

青年がひっくり返るまでが、一番分からなかった

この本は、最後に青年が変わる。それまで食ってかかっていたのが、哲人の言葉で腑に落ちて、おぉー、となる。

先に言っておくと、5章そのものは良かった。この本で一番読む意味があったのは、たぶんここだ。肯定的なあきらめの話は好きだったし、自分次第で世界の見え方が変わるという話にも同意する。

分からなかったのは、青年が納得していく過程の方だ。

どのやり取りで、何が引っかかりを外したのか。そこが見えない。前の章までと同じように、哲人が説明して、青年が食ってかかる。それが続いていたはずなのに、気づけば青年は受け入れる側に回っている。

たぶん、青年の中では何かが積み上がっていたんだと思う。五日間の対話で少しずつ準備ができて、最後に繋がった。物語としては、正しい終わり方だ。

ただ、こっちにはその積み上がりがない。ズレたまま最後まで来て、代弁者だけが先に行ってしまった。

置いていかれた側は、なんでそこで分かったん、と思いながら本を閉じることになる。

それでも、この形だから見えるものもある

対話形式の文句ばかり書いてきたけれど、この形でなければ気づけなかったこともある。

読んでいて思ったのは、哲人と青年は違うベクトルで話しているということだった。哲人は理屈で話す。正しそうなことを、筋道を立てて並べる。青年はよく感情で返す。納得できない、そんなのは理想論だ、と。

噛み合わないから読みにくいのだけど、この噛み合わなさ自体は、たぶん現実の会話に近い。

そして僕は、第三者としてそれを横で聞いている。だから冷静に、理屈の側で読める。青年の反応を見て、そこじゃないやろ、と思える。

ただ、実際に面と向かって言われる側に回ったら、同じように読めるだろうか。僕は、たぶん変わらない。何かあったときに自分を客観視する癖があるので、感情より先に理屈が出る。でも、多くの人はそうじゃない気がする。読んでいるあいだは哲人の理屈に頷いていた人が、自分が言われる番になったら、青年と同じ反応をする。

つまりこの本は、読む位置で見え方が変わる。読みながら、自分は哲人の側にいたのか、青年の側にいたのか。二周目は、そのもう一方——哲人側で読んでいたなら青年になりきって、青年側で読んでいたなら哲人になりきって——読んでみると、違うものが見えるかもしれない。

まとめ——これは、物語として読む本なのかもしれない

読み終えて残ったのは、本を読んだというより、物語を読んだという感覚だった。

哲人と青年がいて、五日間かけて言い合って、最後に青年が変わる。筋があって、登場人物がいて、着地がある。教えを受け取ったというより、その顛末を眺めた、という読後感に近い。

だから、名著と言われるほどか、とは正直思った。中身が悪いという意味ではない。ただ、教わるための本というより、物語を読まされた感じが残った。

この本の中身を一言にすると、たぶんこうなる。好きな人を選んで、その人たちと付き合う。嫌なことを言ってくる相手は相手にせず、距離を置く。それだけで嫌なものが減って好きなことが増えるんやから、その方が幸せよね、という話。

言っていることは分かるし、間違っているとも思わない。

ただ、そこに行き着くまでに、五日間の対話に付き合う必要があった。ズレたまま、話が増えるのを追いかけて、最後に置いていかれた。

いま振り返ると、ほとんど5章だけ読んでもいい気がする。物語として読むなら最初から、教えだけ受け取りたいなら最後から。そういう本なのかもしれない。

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書籍情報

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』

著者:岸見一郎、古賀史健

出版社:ダイヤモンド社

発売:2013年12月

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