『嫌われる勇気』は矛盾しているのか——引っかかったら、考え方より先に言葉を疑う

『嫌われる勇気』は、言っていることは正しそうなのに、読んでいると何度も訳が分からなくなった。

原因は、考え方ではなく言葉だった。

普段の意味のまま読むと、正しいのかどうかすら判断できない。気づけたときだけ、ちゃんと読める。

目次

言っていることは正しそうなのに、読んでいて訳が分からなくなる

『嫌われる勇気』を読み終えた。アドラー心理学を、哲人と青年の対話で解説する本だ。

書いてあることは、たぶん正しい。こういう考え方、受け取り方をしていけば楽に生きられますよ、という話で、一つひとつはもっともらしい。難しい理屈が出てくるわけでもない。

なのに、読んでいる途中で、何度も分からなくなった。

原因は、考え方ではなく言葉だったと思う。普段使っている意味とは違う意味で、同じ言葉が使われている。そこに気づかないまま読むと、書いてあることが正しいのか間違っているのかすら、判断できなくなる。

一番はっきり出たのが、「自己中心的」という言葉だった。

「自己中心的」に、承認欲求が足された

本のなかに、自己中心的な人とはどんな人か、という話が出てくる。

青年が挙げるのは、こういう人たちだ。他人の迷惑を顧みず、自分の都合しか考えない人。権力や腕力に任せて、専制君主のようにふるまう人。集団の和を乱す人、集団行動ができず単独行動を好む人。

ここまでは、普段「自己中心的」と呼ばれている人と、だいたい同じだと思う。

そこに哲人が、もう一つ加える。承認欲求にとらわれている人も、自己中心的だと。

理由はこうだ。承認欲求とは、他人が自分にどれだけ注目しているかを気にすること。だから他人を見ているようでいて、実は自分のことしか考えていない。

言わんとしていることは、分かる。

ただ、これを「自己中心的」に入れてしまうと、おかしなことになる。

他人からどう見られるかを気にして生きている人は、自己中心的。じゃあ、気にせずに自分のやりたいようにやる人はどうか。それは、青年が最初に挙げた「自分の都合しか考えない人」の方に近づいていく。

つまり、他人の人生を生きていても自己中心的になるし、自分の人生を生きても自己中心的になる。どっちに転んでも、自己中心的。

それなら、自己中心的じゃない人って、どんな人なんやろう。

「他者への関心」は、途中で主語が変わっていた

その答えらしきものは、すぐあとに出てくる。

自己中心的であることをやめて、「他者への関心」に切り替えないといけない。「わたしはこの人に何を与えられるか」を考えろ、と。

ただ、これはこれで引っかかった。

他者が何を欲しているのか、何をしてほしいのか。文面だけ見ると、他人を気にしすぎている。この本は、その前の章でこう言っていたはずだ。

われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。

他人の課題は切り捨てろ、と。それが、気にしろという話になっている。

読み進めると、これは他者貢献という話に整理されていく。そこまで来て、やっと分かった。主語が変わっている。

「あなたが何を欲しているか」ではなく、「わたしが、この人に何をしてあげたいか」。同じように他人を見ていても、出発点が相手にあれば他人の人生で、自分にあれば貢献になる。

つまり、行動そのものが分けているんじゃない。その行動に、自分がどういう意味を与えるかで決まる。

ただ、これを読み取るには、途中で主語が入れ替わったことに気づかないといけない。気づかないまま読むと、さっきと逆のことを言われているようにしか聞こえない。

同じことが、この本では何度もあった

「自己中心的」だけの話ではなかった。読み終えてから振り返ると、同じことが何度も起きている。

客観

2章に、1ドル紙幣の価値の話が出てくる。紙幣の価値は、みんながそう思っているから成立している共通感覚であって、客観としての価値ではない、と。

これが飲み込めなかった。僕にとって客観とは、みんなからの見え方のことだ。その意味で読むと、紙幣の価値はまさに客観的な価値になる。書いてあることと、真逆になってしまう。

掘っていくと、ここでの客観は「物そのものに備わった価値」のことだった。ダイヤも見方を変えればただの石ころ、紙幣も原価で考えれば1ドル分の価値はない——そういう文脈。意味が違えば、同じ一文の正しさがひっくり返る。

劣等感

2章では、健全な劣等感とは他者との比較ではなく「理想の自分」との比較から生まれるもの、と説明される。ここは納得して読んでいた。

ところが4章では、劣等感は縦の関係の中から生じる意識だ、と出てくる。

自分で立てた定義を、自分で使っていない。2章で納得していた分、ここで分からなくなった。

自己肯定

5章では、自己肯定は「できもしないことをできると自己暗示をかけること」だと紹介される。

そんな意味やったっけ、と思った。それは自己暗示の説明であって、自己肯定の説明ではない気がする。

3つとも、普段の意味のまま読むと引っかかる。本の側の意味に乗り換えれば読める。でも、乗り換えたことに気づかないまま進むと、話が通じなくなる。

まとめ——この本は、辞書の意味で読むと迷子になる

読み終えて残ったのは、この本は言葉の意味が場面で変わる、ということだった。

自己中心的、客観、劣等感、自己肯定。どれも普段から使っている言葉なのに、この本の中では別の意味を持たされている。そして、その断りが毎回あるわけでもない。

だから、普段の意味のまま読むと、正しいことを言われているのか、間違ったことを言われているのかが判断できなくなる。僕が何度も分からなくなったのは、たぶん全部これだった。

正直に言うと、うまいこと言葉をつないで、別の話で納得させられているように見える瞬間もあった。

別の本でも、似たことを思ったことがある。立派な説明を剥がしたら、当たり前のことが出てきた——『イシューからはじめよ』の「60%で回せ」が理解できなかったので、検算してみた。あのときは、剥がした先の中身が問題だった。今回は、剥がす前の言葉が入れ替わっていた。

ただ、意味を本の側に合わせれば、話は通る。「他者への関心」で主語が入れ替わったと気づけたときは、ちゃんと読めた。

だから、この本の読み方は、たぶんこうだ。引っかかったら、考え方を疑う前に、言葉の意味を疑う。自分の辞書で読んでいないか、確かめる。

それができれば、この本は読める。できないままだと、途中で置いていかれる。

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書籍情報

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』

著者:岸見一郎、古賀史健

出版社:ダイヤモンド社

発売:2013年12月

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